インヨウとゲンパツ
陰陽五行で季節を見ると、、ある季節の終わりには土用の期間があり、その土用があけると次の季節が始まる。
現代風な言葉でいえば、ある季節がフェイドアウトしていく時期であり、次の季節がフェイドインしてくる時期。
一方、季節の始まりは「兆す(きざす)」という言葉に象徴されるような、微妙なもの。
雪がほんの少しずつ解け始める。
軒下の氷柱から落ちる水の勢いが少しだけ増す。
朝に吹く風がゆるみはじめる。
夜の間に凍った氷が解ける時間が少しだけ早まる。
ほんのちょっとだけのその変化を感じるために「今がその時」と知らせる役割も持ち合わせているのが土用。
約18日間のメディテーション期間。センタリング期間。グラウンディング期間。
土用の「土」は、五行=木火土金水の真ん中。
中央。中心。命は土から生まれ、土に帰る。季節は土に帰り、土から生まれる。
死と再生は、季節の終わりに季節が始まるように、二重の螺旋を描いている。
その断面図が大極図。
陰極まれば陽に転ずる。
陽極まれば陰に転じる。
陽のエネルギーが極まる時、陰のエネルギーが復活する。
長いスパンの中で見てもそれは同じで、何かのエネルギーが極まっているとき、
そこだけに囚われることなく大極を見れば、そこには何かの復活の目が芽生えている。
グラウンディング、センタリングすることで見える季節の芽生え。
そこに未来がある。
季節の終わりは破滅ではない。
ある日付をもって世界が破滅すると思わせる。
人々を恐れさせ、あきらめさせ、無能にさせる。
これはひとつのブラックマジック。
プロパガンダ、広告、洗脳、人の恐怖心を操るブラックマジック。
ブラックマジックは、人間が作り出したテクニックにすぎない。
恐れることはない。
人間も含めた大自然、大宇宙の法則にはかなわない。
自然の一部であり雛形である自分の心身の中で今、
何が終わろうとして、何が始まろうとしているのか。
自然に触れるとわかること。
自分に触れるとわかること。
今は恐れに戸惑って、自分から離れるときではない。
自分の中の聖なる空間=ハートに帰るとき。
逃げ場はない。逃げる必要もない。
今は帰るとき。
自分に帰る。
家族のもと、恋人のもと、仲間のもとに帰る。
そしてハートの声を聞きあうとき。
そうすれば次の季節は見えてくる。
死の灰を降らせ続ける季節は終わりゆく。
死の灰の上に一歩一歩蓮の花を咲かせるように生きる季節はもう始まっている。
と思う。
陰陽五行、太陽と月の暦、日本列島に伝わるさまざまな教え、歴史、伝統、暮らし方、知恵。
そのすべてのおかげで今生きている。
それらが押しつぶされ、弾圧され、迫害されてきた歴史。
それでも雪の下で芽生えのときを待っている種のように、
暮らしの中で、地域の中で、それぞれの心の中で受け継がれてきたものがある。
そういったものに気づける感性を大事にしていきたいですな〜。
踊ったり、ヨガしたり、心身をハイにしたりエネルギッシュにしたりクリアにするような食を心がけたり、土の中で遊んだり働いたり、自分や家族の身体に触れたりして、、、五感・六感、センサーの感度を上げていくこと、、
頭ではなく心身霊で時を感じていくことの大切さを思います。
恐怖心に振り回されるのではなく、
恐怖心を発見したら、治療することが大事よね。
五行でいうと「恐」は「水」にあたります。
水にあたる内臓は「腎」「膀胱」。
そこが冷えると、弱ると、恐怖心が連動してくる。
怖くて足がすくむ、とか、失禁していしまうとかに象徴されるように。
ミネラルの欠如、たちっぱなし、足のむくみ、などは、水の臓を弱らせるし、
弱っているサインをそういったところから読み取ることもできる。
下半身を暖めること。
血液の温度をあげること。
ミネラルをとること。
陽性の食品をとること。
陽性の意識を育てること。
歩くこと。
とかね、養生法は挙げたらきりがありませんが、、、
「工夫は少ないほどいい」
といいますから、、あんまり頭で情報を吸収しようとしないほうがいいのかもしれませんね。
とにかっく。
電磁波、添加物、化学薬品、放射線などは、、ちぎる力、放射する力、拡散する力がとっても強いです。
つまりすっげー陰性。極陰性。
こういったものは、内臓の中で最も陽の気を必要とする「水」の臓にダメージを与えます。
極まりすぎているパワーは受け取るとダメージになっちゃうんですね。
甘みは胃の薬になるけど、ハイパワーすぎる甘みの上白糖などは胃をいためてしまうように。
でもって、被ばくと恐怖が連動しているのは、、五行でみるとよくわかります。
恐怖心は、思考停止や他者への依存(強烈な信仰や、強烈な批判など)を生みます。
それは、風邪の症状みたいなものなので、直したほうがいいし、、
もともと腎が弱っている場合も多いし、日本全体の平均的な食生活やライフスタイルも、
腎を痛めそうな感じがずっと続いていると思うので、結構根深くもあるでしょうね。
原発こわいけど、こわすぎて動けないとか、こわすぎて考えられないとか、
こわすぎて意見がいえないとか、、それも症状ですよね。
だからそのような症状を抱いている人をみて、責めてもしょうがないというか。
むしろ治療がいるし、治療がちゃんとできるような環境も必要だと感じます。
もっと言えば、みんながそれぞれ自分で症状を診断して、手当て、養生できるのが理想。
そういった家族関係、地域ができれば素敵。
というか、そこを本気で目指したい。
命としての幸せのすべてにおいて、自立していくこと。
それができないで「地球を救おう!」とか、おこがましいっちゅーねん!みたいな。
まあそこは連動しているというか、地球の雛形が私たちですから、、
そりゃーウラン堀まくって、石油燃やしまくって、、
地球の内臓痛めつけまくっているわけですから、、
僕たちの身体が痛んだり、その痛みが精神に現れていても仕方ない。
地球が泣いているというか、地球のバランスが崩れているサインが、
私たちの涙として現れているってことだと思います。
だから、まずは身近で涙している人を癒すことが大事だし、
自分が涙しているなら、その涙を癒すことも大事だし、、
自分や家族の免疫力を高めていくことも大事。
手仕事やって元気になることもあるし、
歩いて元気になることもあるし、
知りたいことを知って元気になることも、
歌ったり踊ったり、耕したりしても元気になる。
原発は人間が作って人間が動かしてきたもの。
それを動かしてきた心と身体。
サインは出まくっています。
ウランは今もゴウゴウと燃えていて、放射性物質は今も世界中を飛び交っている。
そして立ちすくむ人間。うずくまる人間。その心。その身体。
ひとつひとつの細胞に違う役割があるように、人類の一部であるひとりひとりの役割も違う。
誰が何をしているとか、していないとか、大事なのは批判より理解。
私自身はどのようなポジションで、どのような感性と特性をもって、ここにいるのか。
他者への批判や依存が過ぎることでそこが見えなくなってしまうなら本末転倒。
批判や依存が間違っているとか悪いということではなく、度が過ぎると薬は毒になるということ。
同時に、自分が誰かを批判しすぎてしまっている症状が自分に出ていることに気づいて、
そのアンバランスを治療するきっかけにすることもできる。
「あの人はみんなを見捨てて逃げた」
と思ったとしたら、自分自身の中に、そのように解釈してしまう何かがあるのかもしれない。
つまり、そこには「自分は逃げたい」という気持ちがあるのかもしれないということ。
不安や恐怖という症状が出ているのかもしれないということ。
そうであれば、それはひとつのサインであるし、治療のチャンスであるかもしれない。
新しい治療が始まることで、新しい心身の状態を作り出せるかもしれない。
そのことが、新しい現象が巻き起こっている現実世界の中を生きる自分を助けるかもしれない。
自分が直っていくことで、
不安や恐怖に駆られることのない静かで穏やかな心とつながっていれば、もっと違う見方もできるかもしれない。
彼らは本当に逃げたのか?
移動した、移住した、本当は色々な言い方ができる。
彼らがどんな様子で、どんな心身の状態で今いるのか。
放射能のことだけが原因で移動したのかどうか。
そこでどのような暮らしを作り直そうとしているのか。
本当はそんなことわからない。
わからないときには、断じるという行為は、お互いの心に傷を作ることがあると思う。
判断することも時には大事だけど、、
わからないときや、あせっているときや、不安や恐怖にかられているときは、、、
相手の心境や態度や、表情を想像する心をゆがませたり、相手を見つめる目を曇らせることもある。
遠くはなれてしまったあの人も、ちゃんと今もつながっている。
そこはだいじょうぶ。
見捨てられることはない。
あなたから逃げたわけでもないし。
もともと新しい暮らしを始めたいと思っていて、今回のことはきっかけにすぎない、という人もいます。
私たちは逃げた、という意識から「新しい暮らしを、この土地に元々暮らしている人たちと作っていきたい」といっている人もいます。
つながりを断ち切ったのは本当に相手なのか。あの人なのか。
断ち切られたと勘違いしているだけではないか。
相手の声を聞いたのか。会って確かめたのか。
それができないというのは、本当か?
何人かの人が自分たちの地域を離れたからといって、
そのことで自分たちの暮らしに迷惑がこうむられる、と感じているとして、それは本当なのか?
もちろん、そう簡単にいうなよ!という気持ちは、本当にわかります。
僕自身が、家族、仲間との間で、身をもって色々なことを体験しているわけですから、
現実はそう簡単じゃない、ということもわかります。
でも一方で、簡単じゃないからどうしたってんだい、とも思うので。
「この病気は一生治らない」と医者に言われても(実際言われたことが何度もあります)、
それは諦める理由にはならない。
誰が無理だと言おうと、原発を止めるという願いを手放す理由にはならない。
理由は、外から持ち込まれるものではなくて、自分の中から生み出すものなのだと思うんですよね。
諦める理由も、悲しむ理由も、怖い理由も、頭にくる理由も。
何より今は火事が起きているような緊急事態でもあるわけですから、
攻撃にまでなってしまうような偏った批判をしている場合ではないでしょう。
原発が爆発したことの衝撃は今も続いていて、
炸裂した膨大なエネルギーは今も広がり、とどまり続けている。
強い批判はすぎると攻撃になるし、攻撃の連鎖が、今も続いています。
こんなに世界が硬直化してしまっていて、、
思考停止状態になってしまっていて、、
その奥底でそれぞれが溜め込んだ感情がうずまいていて、、
その症状が極まった表れとして放射性物質が吹き出ているようにも思います。
そしてその放射性物質は、ウラン鉱山のそれとは違い、
人間が意図的に核分裂させて作ったもの。
人間が人間のために自ら振りまいたもの。
そのことに対しては、人間が何らかの対応をすべきで、
誰も関わりのない人間はいないとも思っています
だから、すべきことをするための話し合いや、新しい決定は必要になってくるし、
そのために意見すること、声を届けることは必要だと思います。
念のためにここで書いておくと、、
僕は批判は大事だと思う。
言うべきことは言う。
家族の中、仲間の中。
電力会社に対して、政府に対して。
ポジティブな批判はトウモロコシに吹く風のようなもの。
という言葉があります。
その強い風が、トウモロコシが大地に根を強く張ることを助ける。
日本はアメリカのともだち、というなら、、
「ともだちだから言うけどよ!これはやりすぎだろう!」
とか、言わないとね。
本当の友情は育まれないよね。
それと同じことが、色々な関係の中において言えると思う。
なので、僕はデモもハンストも、反対運動も、、、完全に肯定します。
また、自分の中にあるハンストに深く共鳴する自分、デモに参加する自分を完全肯定します。
ほんと、バランスですね。
その一方で、僕自身が、人をジャッジしたり、人のやっていることに感情が振り回されたとき、
その様子が偏っている、陰か陽が極まりすぎている、とかんじたとき、
そのような症状を引き起こしている自分の心身を見ることが多いです。
自分の症状が改善されれば、、起こっていることを理解したり対処したりすることが、
以前よりもスムーズになるような気がします。
よりよく働くために、それは大事なことかな、と思ったりします。
誰にぶつけていいかわからないような、煮えたぎるような怒りを感じたあと、、
その怒りの根にある不満や未解消にしてきた感情を発見したり、、
そのエネルギーが結果として、何か違う行動や表現活動の起爆剤になったり、、
いろんな体験が続きますね。
気の様子が変わり、清濁混沌カオスな感じの今だからこそ、
世界と宇宙と、家族と仲間と、心身とスピリットが、どのように呼応、連動しているのか、
感じるための「土用の養生」的なありかたが大事なのかなと思ったりしています。
新しい季節を迎えるにあたって、改めて自分と出会い、家族と出会い、仲間と出会っていく。
つれづれなるままに書きつくれば、、今そんなことを思ってます。
冨田貴史 拝

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